2012年7月22日日曜日
歴史
山形は平安時代から江戸時代までは農村
父 俊作(しゅんさく)は昭和8年
山形県 西郷村に生まれる。
(祖父 明治24年 祖母 30年)
※庄内(大名 酒井 徳川の親族)
海岸部は早く開けた→酒田港
祖父は農家の二男にうまれ、非常に頭の回転が良かった。
住職の道を選び善法寺につかえ善立寺で修業
その後朝日村にて寺院住職となる。
※当時 幕府と寺は重要な関係であった。寺を押さえると地域住民の
動向が把握できた。
父は地元の東岩本小学校に入学 小学校2年の時に太平洋戦争勃発
小学校卒業前に終戦
終戦によりGHQにて教育改革が行われた。
祖父の考えは父を教師にする予定だったようだ。
小学校卒業後 山形市内の師範学校(師範学校を卒業すると教師になれた)
(予科3年 現在の中学相当、 本科4年 高校相当)
父が入学した時は古い教育制度であったが在学中にGHQ指導のもと、教育改革が行われ
学校制度が変化。父は教師をやってもしかたないのではと疑問を抱きだした。
予科を卒業すれば何処の大学でも行けると制度が変化していた。
旺文社の雑誌で新島譲を知る。
※新島 襄(にいじま じょう)(1843年2月12日) - 明治23年(1890年)1月23日)はキリスト教の布教家。同志社英学校(後の同志社大学)を興した。福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人に数えられている。
それがきっかけとなり京都 同志社大学を目指した。当時の父の目標は官僚になる?
また日本は法治国家であるため法を制することが仕事で食いっぱぐれがないと判断したようだ。
ただ、当時の司法試験は難易度が高く、2回のチャレンジで断念、祖母の死、就職難もあり
卒業後は即職に就かねばならなくなった。
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